鳶の伝統
江戸のむかし明暦の大火をはじめ十五年に一度は、江戸のまち全体が焼野原になる様な大火災に見舞われたというが、江戸の大火は、筑波おろしの空っ風の吹きまくる冬に多い。その猛威は、とてものことでは防ぎきれない。享保三年(1718)、余りにも大火が多く、なんとか火事を防ぐ対策はないものかというので、八代将軍吉宗公のとき南町奉行大岡越前守が北町奉行、中町奉行と合議 したが、なかなか良い案が出てこない。そこで大岡越前守の「町火消(まちびけし)なるものを組織し専門に消火に当らせてはどうか」という案が決って翌四年に江戸市中に、いろは四十八組の町火消(まちびけし)が組織された。  そして一たび火事が起きると「それッ」とかけつける姿は、きびきびと統制のとれた動きで何事も町のためと一切を捨て、命すらも捨てて猛火に立ち向かっていく心意気は、江戸ッ子の「いなせ」「きおい」の代表として火消(ひけし)が大いにもてはやされたそうである。消火活動の際には破砕用具として、もっぱら「鳶口(とびぐち)」が使われた。そこでつねづね手入れを怠らずに磨きあげる。一名「鳶」が火消の代名詞となったと言われている。現在の我が社は、町火消の伝統を受継ぐ「鳶の頭(かしら)」というわけである。
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